どうも、おっさんです。
最近、全国的に注目されているあのニュース、私は少々気になりました。
長野県の住宅地の中にある公園が、近隣の住民の騒音被害を訴える苦情を受けて廃止されることになったというあのニュースです。
報道によると、この公園は児童センターに隣接しており、多いときは50人ほどの子どもたちをここで遊ばせていたそうです。この住民は、子どもたちの歓声のほか敷地内にボールが入って植栽が荒らされたり、送迎の車両による騒音や渋滞などにも悩まされたといいます。
この住民は決して公園の廃止を求めたわけではなく、上記の被害を軽減するよう、公園を管理する長野市に求めたそうですが、有効な解決策を見出すことはできず、廃止やむなしの結論となりました。
この苦情を申し立てたのは1人で、しかも大学の名誉教授ということも注目に拍車をかけました。
「無垢な子どもたちの遊び場を奪う非情な上級国民」
という構図の報道がなされ、この住民を激しく非難する著名人も現れました。
確かに子どもたちには元気いっぱいに、気兼ねなく遊ばせてやりたい。
誰だってそう思います。
ですが、この住民を非難している人は、この住民が被った騒音その他を実際に体感したのでしょうか?
私もかなり以前のことですが、子どもたちの歓声に悩まされた経験があります。
夜勤明けでへとへとになって帰宅、またその日の夜勤に備えて眠ろうとしたのですが、当時住んでいたアパートのすぐ目の前の駐車場で子どもたちがボール遊びか何かで騒いでいる。
公園ではなくて駐車場ですから、さらにたちが悪い。
苦情の一つを言ってもいいところですが、疲労困憊だった私はその気力もなく、非常につらい思いをしたことを覚えています。
それでも
「子どもの声くらいで、大人げない」
と思う人もおられるでしょう。
ですが、それは程度の問題だと思います。
一連の報道により悪者にされてしまったこの住民ですが、この人が置かれていた環境がどの程度のものなのか。これがわからない限り、この住民の言い分が一般常識を超えたわがままなのか、「これは耐えられないね」と同情すべきものなのか、私にはわかりません。
おそらく、この住民を非難する人は、それまでの経験で子どもの歓声を耳にしたことがあるのでしょう。そしてそれは必ずしも騒音と呼べるものではなく、それどころか微笑ましく感じられたのかもしれません。
ですが、自身の経験が、感触が、他人にとっても同じとは限りません。
自分の基準をつい、他人にも当てはめてしまう。
無意識のうちに、してしまいがちなことです。
この出来事そのものは不幸なことかもしれませんが、そういったことへの戒めになれば、せめてもの慰めになるのかもしれません。
私自身も気を付けよう、と感じさせられたニュースでした。